『チャコの世界』
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飲み会の席。
面子紹介のあと、揚げ出し豆腐に手を伸ばす僕に、今しがた初めて合ったばかりのチャコが唐突に叫んだ。
「ほうれん草の男!」
僕は揚げ出し豆腐に伸ばし掛けた手を諦め、隣にちょこりと座るチャコの方を見遣った。
「だから、ほうれん草の男よ!知らないの?」
「もちろん知ってるよ」
それから僕はアメリカのアニメに出てくる船乗りについて知っている限りの知識を披露した。彼がいつもパイプをくわえていること。か細い女性をあらゆる危機から助け出すこと。それに、ほうれん草を食べると誰にも負けないパワーを得られること。
僕はさらに続ける。
「その男はどんな窮地に陥ったって、ほうれん草さえあれば、必ず解決できるんだ」
チャコは僕の顔を不思議そうに覗き込み、でも何かに決着でもつけるように力強く頷いた。
「あなた合格よ!今日からほうれん草の男!」
今度は僕の方が呆然とチャコの顔を見つめた。
そんなのお構いなしにチャコは続ける。
「あなたは今日から私を守るの。それがほうれん草の男の使命よ!」
「ちょっと待った!何のこと?まだ初めて顔を合わせて三十分も経ってないよ。」
「それって問題?」
「大問題だよ!いきなり私を守れって?」
「無理?」
「無理とかそう云うんじゃなくて…、何というか… ほうれん草食べても僕は強くはなれないし・・・。」
僕自身にとっても、まったく訳の分からない弁解だった。でもそれがチャコの世界だ。
かくして僕は、揚げ出し豆腐を諦め、ビールの酔いもままならないまま、チャコの世界に引き寄せられて行くことになる。