皆さん、こんにちは!
『東岡崎 居酒屋明月』の藤原です!
今日は月刊誌致知の記事から。
*+☆+*――*+☆+*――*+☆+*
『親父の弁当』
その昔、我が国はいまの若者たちが
考え及ばないほど貧乏な国であった。
しかし、その頃の家庭には
ぬくもりがあり、総じて明るかった。
親子の情は濃く、長幼の序は厳しく、
そして礼儀正しかった。
母親は総じて寡黙でつつしみ深く、
人前、とりわけ子供の前では父親を立てた。
来日した著名な外国人たちが、
口を揃えて
「礼節の国」「道義ニッポン」
と讃えてくれた国でもあった。
60数年前、世界の大国と戦い、
そして敗れた。
戦後は食べる食なく、着るに衣のない
どん底の生活を体験しながらも、
我が民族は汗と涙で経済大国日本を築いてきた。
民族の底力と誇っていい。
しかし、富(豊かさ)の構築とほぼ比例するように、
表現を変えれば、築き上げた富と引き換えるように
民族の美点、長所を失ってきた。
悲しいまでの現実の日々である。
著者にとって大事なお得意先であり、
長い知り合いの経営する「三笠会館」
という有名なレストランが銀座にある。
創業者の谷さんは奈良のご出身であり、
在家仏教で名を成した方でもあった。
その三笠会館より以前発行された
『るんびにい』241号で
故・樋口清之教授(国学院大学)の随筆が
戦前の家庭の姿、親子の生き様を語って
余すところがない。
樋口さんの友人で、よく貧乏に耐えて
勉学にひたむきに努める人がいた。
その友人が勉学に励んだ動機は、
「おやじの弁当」
だという。
彼はある日、母が作る父の弁当を
間違えて持って行ってしまった。
彼曰く、
「おやじの弁当は軽く、俺の弁当は重かった。
おやじの弁当箱はご飯が半分で、
自分のにはいっぱい入っており、
おやじの弁当のおかずは
味噌がご飯の上に載せてあっただけなのに、
自分のにはメザシが入っていたことを、
間違えて始めて知った。
父子の弁当の内容を一番よく
知っている両親は黙して語らず。
肉体労働をしている親が
子供の分量の半分でおかずのない弁当を持ってゆく。
これを知った瞬間、
『子を思う親の真(愛)情』が分かり、
胸つまり、涙あふれ、その弁当すら食べられなかった。
その感動の涙が勉学の決意になり、
涙しながら両親の期待を裏切るまいと
心に誓った」
という。
それに引き替え、
戦後の私権の主張のみに急な世相の中では、
「お父さんの弁当の中身は少ないが、
お前のはちゃんとした弁当だから頑張れ」
などと発言しがちであるが、
それでは
「恩、愛の押し売りはごめんだ」
と生意気な子供の言葉が
はね返ってくるのがオチであろう。
この「おやじの弁当」の心こそ、
仏道で説く「陰徳」の妙法であり、
「慎独」の実践なのである。
*+☆+*――*+☆+*――*+☆+*
子を想う親の心ってすごいですよね。
つい先日の熱田参りの帰り、たい焼きを買いました。
娘はそんなに食べないだろうと家内の分と2つ買いました。
初めは家内が娘に分け与え、思いのほか食べる様子なので、次は僕が分けることにした。
カスタード入りの鯛焼きは、始めこそ生地ばかりだったが、中に向かうほどカスタードが溢れだした。
僕は隅の側をむしり取り、カスタード溢れる中側を娘に。
いつか嫌になるだろうという淡い期待は、娘の満足な表情に消えて行った。
でも僕は僕なりに満足だった。
娘の美味しそうな表情は何よりのご馳走だった。
でもこれが件の記事の状況ではどうだったか。。。
いつか嫌になるだろう淡い期待のなんとみすぼらしい事か。
子どもの頃、特に貧しいという訳ではなかったが、食卓で親父が一緒に食事をしている姿を見たことがなかった。
父子家庭の我が家では、食卓は家族全員で必ず囲み、一緒に食べるのが絶対に守らなくてはいけないルールだった。
その食卓で親父が子どもたちの一日の様子を訪ね、何かしらの想いを話す。
もちろん僕も話すのだけれど、そのあとは説教に変わる日もしばしば。
そんな食卓の風景も、思い返せば親父は一番最後に食事を摂っていた。
皿は子供たちの数だけしかなく、親父は話をしながら子供たちがお腹一杯になるのを見届けていた。
それぞれが食べ終わり、部屋に戻った後、残ったものを掻き込んでいたのを思い出す。
そうか、そういうことだったか。
自分が親になり、思い返してやっとそこに思い至った。
まだまだだな。
カスタードの鯛焼きを潔く捧げられるお父ちゃんにならなくては!
っていうか、今度は3つ買って、娘が満腹になるところを見届けられるようにならなくては。
こうした静かなコミュニケーションの中にも、教育ってものはあるんだなぁ。
ってなわけで、お父ちゃんは本日も張り切っているわけですよ!
(o^-‘)b
イェイ!